セキュリテナイトレポート(1) ミュージックセキュリティーズ(2012.09.14) ― 2012年09月22日
セキュリテナイトも前回から1年半ぶりの開催となるので、振り返りを。
被災地応援ファンドを立ち上げ、その後ファンドからの資金を資本の一部と見なせるように金融庁も後押しをしてくれるように。
当社として初めてテレビCMも宮城県で行った。金融商品のCMが難しい時勢の中で50本。大きな反響があったので、宮城から全国へと拡げていきたい。
音楽事業ではAK-69はニューヨークへ。担当者はAK-69がNYへ行った後もサポートのために度々NYへ行っている。
また、オフィスも同じビルの中でベンチャー企業向けエリアから一般テナントエリアへ移転して1Fのプレートに当社の名前がのるようになった。社員も5名増えて1名は育休をとっている。
そして、今日は自分の誕生日。
官民連携でふるさと投資も動き始めている。カッコイイ経営者に資金を調達していきたい。更に裾野を広げるべく銀行や信金とも話を進めている。
今日はまず3社の熱い話を聞いて欲しい。
証券化事業部 猪尾さん
こだわりを持たれた事業者さんとお会いしてファンドを組成している。自分もファンになっていることもあり、こういった直接顔と顔を付き合わせるイベントは大事だと考えている。
セキュリテナイトレポート(2) マルニ木工(2012.09.14) ― 2012年09月22日
マルニ木工 山中社長
当社では「100年経っても『世界の定番』として認められる木工家具を作り続ける」という言葉を掲げて仕事に取り組んでいる。
創業者は宮島で生まれ、昭和5年に床と畳しかなかった日本の住宅文化を高めたいという志をもって「工芸の工業化」を掲げて創業した。戦中は細かい精度が求められる戦闘機の尾翼を木で生産したりもしていた。その頃にはミリ単位の加工を行うようになっていた。
戦後は量産化を進め、昭和43年にベルサイユシリーズを作ってヒットした。
1980年代に入ってメーカーの枠を飛び出し、商社機能をもたせたりインテリアの総合サプライヤーを目指した。1988年にマルニ木工からマルニへ。総合インテリア販売へと軸足を移したが、1993年にグループ全体で300億円の売上をピークにバブルが弾けてから売り上げダウンに歯止めがかからなくなってしまった。
当時、自分たちはメーカーなのか?商社なのか?とよく言われた。
先輩方からの自分たちはメーカーだろうという言葉を受けて国内外にあった工場を1ヶ所に集約、マルニ木工に戻した。
リストラも行い多くの先輩方に去っていただき、2006年にはデオデオの地域再生ファンドから出資を受けて再生に取り組んだ。
1年ほどで地域再生ファンドからは卒業させていただき、規模はピーク時の1/10以下になったがようやく生き残るめどがついた。
外部のデザイナーさんを探している時に深澤直人さんが当社の優れた加工技術を評価してくれ、一緒に仕事をしてくれるようにお願いした。(INFOBARなどをデザインされた方です)
当社には職人の技を数値化するプロがおり、機械を使って人の手のように削っていく。(ただし、仕上げは職人の手作業)
機械メーカーが壊れるはずがないと言っていた機械が壊れてしまい、見てもらうとこんなに縦横自在に動かしているところは他に見たことがないと言われた。
出来上がった商品名はHIROSHIMA
中田英寿さんも当社に来てくれ、社員がとても喜んでいた。
他にもイギリスのMONOCLEも取材に来てくれ、東京にあるMONOCLEカフェでも当社のHIROSHIMAをたくさん使っていただいている。
19年ぶりに売上が増収へ転換した。
東京での展示会のコンセプトは「みんなで文化祭をやろう」。当社の歴史なども展示したところ来場者からの感想に「感動しました」という言葉をたくさんいただいた。
シンガポールのラッフルズホテルなどでも当社の家具は使われている。
マルニ木工は家具の世界へ出る初めての日本企業となるべく頑張っている。
マルニ木工ファンド2012はこちら
セキュリテナイトレポート(3) 四縁(2012.09.14) ― 2012年09月22日
四縁(薬師寺門前AMRIT) 船津社長
大学を卒業してから15年間は金融機関に勤めていた。外資系金融機関にいて外から見た日本を初めて意識した。日本の素晴らしさに日本にいる自分たちが気づいていないなと感じた。
海外から評価される日本のものはなぜか日本ではダサイと見られている。
クレディ・スイスを辞めて日本のものづくりを4年半かけて見てまわった。
経済産業省が伝統工芸品として認めているものを青森から沖縄まで全て。
そこで、日本のものづくりへの熱い想いに触れることができた。
一度自分が思い描いているものを実現しようと設立したのがプレミアムビジネスパートナーズという会社。昔の仕事仲間からは金融でも立ち上げたのか?と聞かれたが色んな職人さんが作ったものを海外で販売するための貿易実務や資金調達を支援するための会社。
2010年に薬師寺の五反田別院のお坊さんから話を聞いて欲しいとお声がけいただいた。奈良の薬師寺の中に川久グループが料亭を出店していたが突然倒産してしい、来年は1300年祭という事で門前のお店をやってくれるところを探していた。
薬師寺の敷地の中にあるという事は境内に入らないとお客さんが来ないという事で大手は腰が引けており、なにか面白いことをやっている人がいるという事で自分に声がかかった。
実際に現地に行ってみると見渡す限りだれも人がいない。
ここで飲食店なんてどうやるんだ?というのが第一印象。
東京にはあまり歴史がないが、奈良は1300年の歴史を背負っている。
シルクロードの東端の街でもある。そこで、その日のうちにやると答えて2ヶ月で開店した。
居抜きで入ったので料亭時代の家具などが残っており、その中にマルニ木工さんの椅子もあった。最初は捨てようと思ったが話を聞いてみるといいものらしいという事で張り替えてそのまま使うことに。現在も使っている。
夜は外で食事もできるようにしている。
日本の食文化や工芸技術を紹介していきたい。
シルクロードの西の端、ローマまで届けていきたい。
予約もたくさん入って売上は安定しているものの、敷地の半分しか使っていない。もう一本の柱としてギャラリースペースを和食を提供するスペースにしたいと考えている。
出資いただければ奈良に来た際にディープな奈良を紹介したい。
11月にツアーも計画しているので、ぜひ来ていただきたい。
薬師寺門前AMRITファンドはこちら
セキュリテナイトレポート(4) 西粟倉・森の学校(2012.09.14) ― 2012年09月22日
西粟倉・森の学校 牧社長
この時のプレゼン資料は→こちら
岡山県西粟倉村では2008年に百年の森構想をたちあげ、次世代に森を伝える活動を始めた。2009年には地域を一つの経営体とみなす形に。年間300ha間伐を行い、税金(補助金)に頼らず50年計画で森をたてなおすと決めた。
人工林もあと50年手入れを行うと美しい森に育つ。
2012年、原木価格が急落したが原木市場への出荷ゼロを実現することで頑張っている。それは裏返すと全ての木材を地域で加工して出荷しているということ。
2009年に森しかなく、仕事すらないという状況で説明会を行った。挑戦者募集説明会。お金を出すか、人生を出すか?(笑)
全国から志をもった若者が集まってきた。共有の森ファンドを通じて423名の方に応援していただいている。ファンドメンバーから社員になった人も出ている。
間伐は年間50haから昨年で210ha。ニシアワー製造所は木材加工の未経験者12名が間伐材という元気のない木を加工することにチャレンジした。
ゼロから試行錯誤を繰り返し、二年間で間伐材加工のプロに。
木薫 東京で来年5つくらいの保育園に木の遊具を提供する。
木工房ようびも4名体制になった。家具作りは通常広葉樹を使うが、ここは檜の家具作りのトップランナー。
事業開始から2年で売上が1億円に達したのはテストなどに協力いただいたファンドメンバーのおかげでもある。若い人が集まって頑張っている。さらに村で家族になるケースも。子供も生まれている。
地域は大都市の下請けではない。
マーケティングの自前化で丸太を売るだけの村から最終製品を売る村へ。
国産材の需要があまりにも少ない。そこで新しい市場の開拓をしている。
木が好きという人はたくさんいるが、これまで家を建てる以外に使う場面がなかった。
そこで、置くだけで無垢の床板になるというユカハリを出した。
これはオフィスでの導入も始まっている。
50cm四方の木材でユカハリはできる。間伐材であってもこのくらいの大きさであれば木材にできる。
建築材にできない間伐材の有効利用。
西粟倉ではユカハリの他に割り箸もやっている。
日本にユカはまだまだたくさんある。
ユーザーが日本の森を再生させる。
西粟倉・森の学校も最初は売るものがなかったのでツアー収入が中心だったが、だんだんと工場が稼働している。
今は設備投資の真っ最中でいちばん苦しい時。
一つの有機体として間伐材加工システムが最初に完結するまであと二年。
地域完結型のモデルとして。それまでの資金をファンドを通じてお手伝いいただきたい。
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