北海道きりたっぷヤマジュウ訪問ツアーに参加しました2013年06月13日

6月8日に被災地応援ファンドで応援している浜中町霧多布にあるヤマジュウさんの訪問ツアーが開催されましたので参加してきました。
先に企画されたJTBさんのツアーが最低参加人数に達しなかったため現地集合、現地解散のツアーになりましたが8名の方が参加しました。釧路駅で集合し、工藤社長の運転するレンタカーで霧多布へ向かいます。途中、私の出身地厚岸の道の駅で一休み。


厚岸からは北太平洋シーサイドラインを通って霧多布へ。浜中町に入るとイギリスのウェールズ地方のようだと言われる穏やかな丘陵に広がる牧草地と太平洋に向かっての断崖が見えてきます。津波の状況を見てもらうには霧多布の地形を見てもらった方がわかりやすいという事で琵琶瀬展望台から霧多布市街を臨みます。

霧多布は浜中湾と琵琶瀬湾に挟まれた陸繋島でトンボロ(陸繋砂州)の部分に霧多布市街があります。
霧多布はこの浜中湾と琵琶瀬湾の両方から津波が押し寄せました。
かつて津波で大きな被害を受けた霧多布は市街をぐるりと防潮堤で取り囲んでいますが、ヤマジュウさんの加工場は防潮堤の外側にありました。


地震の後、霧多布の人たちは高台へ避難をしていました。工藤社長も高台に避難をしましたが、まさか三陸を襲っているような津波が霧多布まで来るとは思ってもみなかったといいます。大丈夫だろうという軽い気持ちで避難をしていた工藤社長は夜になって念のため防潮堤の外に出て会社を見に行きました。

防潮堤の中に入って何かおかしいと気付き、実際に加工場シャッターがひしゃげている姿を見て「嘘だろ・・・」と。建物の中はぐちゃぐちゃになっているのが見えたので「終わった」という思いとこのままここにいたのでは危ないという事で再び防潮堤の内側に戻りました。たまたま外出先で地震にあったため、そのまま高台に避難していた工藤社長ですが、もしも地震の時に加工場にいたら心配でそのまま残っていて津波にのみこまれたかもしれないと言っていました。

翌朝、再び加工場に来てみると夜の間にも再び津波が襲っていたようで目の前に漁船が打ち上げられていたり、コンテナがシャッターにめり込んでいたり夜に見に来た時よりも状況は悪化していました。
出荷を待つ在庫や原料なども水に浸かって使い物にならなくなり、機械も見た目は大丈夫でも海水に浸かったために動かなくなっていました。(被災当日の写真は被災地からのレポートにアップされています)


まずは札幌の直営店で入っていた予約をキャンセルする対応を始めたところ「お前のところのじゃなきゃだめなんだ」「何か月でも待つから」と予約をそのままに復興を応援してくれるお客様の声に支えられました。その声がずっと頭の中に残って工藤社長はとにかく復興しようと決意をします。この時は国などの復興支援策が出てくるだろうからなんとかなるのではないか?という気持ちだったそうです。


ところが大災害となった三陸と違って北海道は被災地として認定されることはありませんでした。
ここから工藤社長の復興に向けた孤独な戦いが始まります。


国や道に支援策をかけあっても相手にされず、三陸と違って地域として大きな被害が出たわけでもないため地元の金融機関も支援に対して乗り気ではありません。ようやく融資のメドがつきかけた協調融資の話も既存の借入を理由に断られてしまいます。どうにかして支援を受けられないかインターネットを使って情報を集め、国や道、政党、議員とあらゆるところに声をあげてもうまくいかないうちに奥様が大病に罹ってしまいました。(ツアー当日は奥様も見えられ、元気な姿が見られて良かったです)

いよいよ年内の倒産を覚悟し、親戚からも「この状況でバンザイ(お手上げ)しても誰も責められない」と話されてもずっと頭の中にお客様の「お前のとこの魚でないとだめなんだ」という声が残っていたといいます。


そんな時ミュージックセキュリティーズの被災地応援ファンドの事を知り、三陸地方向けの仕組みだろうと思いながらも電話をしてみるとすぐに状況を確認しに来てくれました。現場を見てもらい、ファンドを立ち上げましょうという事になり、それからは仕事が終わった後に電話口で話ながら復興に向けた計画を作成しました。

半分寄付になり、しかも残りの半分も売り上げに応じた返済でいいなんてこんな条件のいい話は本当にあるんだろうか?と半信半疑になりながら始めたファンドですが多くの方に出資をいただき、復興へ向けて絶対に必要だったドイツ製の真空機も購入できました。

それまでは札幌の店においてあった小型の真空機でどうにか真空パックしていたのですが、もう手に入ることはないだろうと半ばあきらめていた機材をファンドの資金で購入することが出来たのです。
この機械が届いたときは本当にうれしくて泣いてしまいました。その時の涙の意味は息子もわかってくれると思いますと話されてました。


工場の中の一番小さなエリアで鮭の焼きほぐしを作っていましたが、昨年北のハイグレード商品に選ばれたこともあり引き合いが多数来るようになりました。ただ、冷蔵施設がないため作り置きができず暖かい季節になると発泡スチロールの箱に氷を入れて積み上げるなど工夫しながらの製造が続きました。

ファンドを募集する際、まずは被災前の1/3の規模で復旧を目指す事にしましたがその後いろいろな方の尽力により北海道の他の地域で被災された事業者と一緒にグループ化補助金を受けられることになりました。ファンドの資金はグループ化補助金を受けるための自己資金としてみなされます。

補助金を使って機材を再び購入できるようになってからがまた大変で、いつまでに納品してもらわないと困ると言われたり、バタバタしながらも新しい機材の設置と調整が先週完了し、加工場の中も見学ツアー当日の朝までかかって片付きました。

被災前と同じ規模で生産できる体制になり、ようやく復興に向けたスタートラインに立てたという気持ちの反面、グループ化補助金は大きな被害を受けた三陸地方の方の犠牲の上に成り立っている制度だという事が心にささるようになりました。本当に自分がこの制度を使っていいのだろうかという気持ちが今でも残っているとおっしゃられていました。


ヤマジュウさんの加工場は本当に海が目と鼻の先にあります。
津波にやられた部分の壁は修復してツートンカラーになっています。これを見ると防潮堤のギリギリまで津波が襲っていたことがわかりますね。


そしていよいよお待ちかねの時不知鮭のちゃんちゃん焼き。
息子さんがおこしてくれた炭火の上にしいた鉄板に豪快にいきます!


軽く焦げ目がついたら皮を下にして野菜を投入します。
この時点で見るからにうまそうです!


続いて工藤社長特製の自家製味噌だれを塗っていきます。


これまで食べたことがないような身の柔らかさと旨味に驚きました。
味噌もほどよい味付けで野菜と鮭の身を食べながらビールが進みます。
もともとちゃんちゃん焼きは漁師が飲みながら食べる料理で最後は焦げた皮を健康に悪いね〜とか言いながら食べていたものだそうです。


ちゃんちゃん焼きだけではなく、花咲ガニも一人1杯いただきました。
お腹一杯だったので二人で一杯にしておきましたが、こちらも美味しかったです。

他にも時不知鮭の切り身(何もつけずに味わってもらうため)、三平汁とどう考えても胃袋が一つでは足りない豪華な料理を堪能しました。社長の二人のお子さんも炭火をおこしたり料理を配ったり手伝っている姿を見て偉いな〜と思いました。


三陸地方の被災事業者さんと違って周りには同じような境遇の事業者がおらず、自分で情報収集や交渉をしないといけなかった孤独、そして国や道には見捨てられた被災地で生き残りを模索する絶望感は相当なものだったと思います。


そんな中、工藤社長はさけます漁船の乗組員が命をかけてってきた魚を妥協することなく美味しくすることに本当にこだわり続けました。どこでどんな状態で魚がれたのかまで把握した上で本当に美味しい魚を更に美味しくなるように手間を惜しまず加工していきます。それは100年以上にわたって漁師が命を落としながらも捕ってきた魚に対して網元として精一杯真摯に向き合った結果なのだと思います。

工藤社長のお話を聞いていて自社の製品にかける想いと誇りに打たれたと同時に自分は自社のサービスにそこまで誇りを持てているだろうか?と恥ずかしい気持ちになりました。


お土産に北のハイグレード商品にも選ばれた霧多布時不知鮭焼ほぐしをいただきました。

鮭のフレークは通常であれば身を塩水につけるのですが、それだと旨味が逃げてしまうため手間を惜しまず塩をふりかけています。振りかける塩の量も切り身200g毎に変えている!というこだわりようです。水産加工場というよりも厨房ですね。

焼鮭をほぐしただけというシンプルな商品ながら本当に美味しいんです。
工場にも新しい機械が入ってようやくスタートラインにたったヤマジュウさんの復興をこれからも応援しつつ見守っていきます。

北海道網元浜中丸サケファンドは1口10,500円から現在も募集中です。

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